安倍元総理の国葬は、法律問題になるのか? ~民主主義のための法律と行政の原理~
2022年7月8日、安倍晋三元総理大臣が銃撃を受け、死亡するという事件が起きた。それを受け、さまざまな問題と報道が日々続いている。私も、事件を受けての言論の自由の在り方や、宗教と政治や司法の関係などについて言及してきた。今回、そのように問題となっていることのひとつに、安倍晋三氏の葬儀を「国葬」で行うというものがある。
そもそも国葬という儀式は、主に戦前行われていたにすぎず、最後に行われたのも吉田茂氏という、まだまだ戦中の匂いも残す頃であった。長らく、元総理の葬儀は政府と所属していた政党である自民党による合同葬という形で行われてきた。もっとも、これも国の費用を出費している以上、本来的には同じ問題をはらんでいたように思う。ただ、今回は、例外的な「国葬」という形をとったため、より注目度が上がり議論されるようになった。そしてその議論では、その政治的当否だけでなく、法律的是非にも言及されている。
今回のコラムでは、なぜ法律が問題になるのかという前提知識の部分に言及しながら、やはりそのルールが持つ理念に触れつつ、自分なりに考えるところも述べてみようと思う。
1. 法律による行政の原理 ~法は国民の委任状~
「法律による行政の原理」という言葉は、行政法を勉強すると真っ先に習うものである。
日本の主権者は日本国民であり、行政も、国民の中から選ばれた議員が内閣を構成して行う。したがって、対等な国民が、別の国民に関する物事を決めることになる。その際、法律というのは、国民の代表者である国会で作られることから、国民同士で合意して認められた内容が記されることになる。たとえば、警察が国民を拘束したりできるのも、国民が自分たちの安全のために、法律である程度の権限を与えたからである。このように、行政に携わる人間が、正しく国民のために動くようコントロールすべく、法律による委任をしていくというのが、法律による行政の原理である。
ただし、あらゆる事項について国会で法律を作るとなると、遠回りとも考えられる。そこで、長らく実務では、国民の権利が制限され侵害されるような時には法律が必須、そうでなければ必須ではないという考えがとられてきた。「侵害留保説」と呼ばれる。また、国民の権利が制限され侵害される場面については、具体的な権限付与が必要と考えられていたものの、たとえば自動車の一斉検問について、警察法という「交通の取締が仕事です」としか書いてない法律でも、強制的な手段でないなら根拠法になるという立場も、採用されたことがある。
つまり、今までの「行政による法律の原理」はあまり制限的には考えられてこなかったし、国葬のように誰かの権利を制限し侵害しない行為についてなら、基本的には放任しそうである。
2. 財政民主主義 ~憲法の要請~
それでは、なぜ法律が必要という議論になるのかというと、民主主義におけるもうひとつの観点が関係してくる。憲法は第7章で財政という項目を設けており、国がお金を使う際に、ちゃんと民主主義的コントロールを及ばせなければならないと定めている。この財政というのは、大学で憲法を勉強してもだいたいスルーされるところであり、司法試験にもほぼ間違いなく出てこない。でも、イギリスでいまだに効力を持った憲法であるマグナカルタは、王が財政を好き勝手使わないよう制限するという発想から生まれたものであり、憲法はまず第一に、財政をコントロールするところから始まったとも言え、本当は重要だ。
そして、国葬は国の出費を要する。つまり、財政民主主義の観点から、主権者たる国民が認めた根拠として、法律がなければお金を出せない。岸田文雄氏が、法律上の根拠をわざわざ内閣法制局に諮問した理由である。
3. 儀式ってなーに? ~内閣府設置法根拠法説~
内閣府設置法4条3項33号には、「国の儀式並びに内閣の行う儀式及び行事に関する事務に関すること(他省の所掌に属するものを除く)」を、内閣府の仕事として規定している。これも、1で言及した警察法と同じく、何かをして良い権限について規定している法律ではなく、内閣府の仕事内容を一般的に記載しているにすぎない。ただ、特定の誰かの権利を侵害するわけではないから、一応の根拠があれば、財政民主主義的にも問題はなく適法だということだろう。
「儀式」という言葉は、実は憲法にも出てきている。第一章 天皇の項目で、第7条 「天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。」として、「十 儀式を行ふこと。」と記載されている。たとえば、内閣の指名に基づいて最高裁長官を任命する親任式の儀式に、内閣は関わることになる。他にも、天皇が儀式として行った国事行為の例としては、参議院での答弁書を参照すると、皇族の結婚式が挙げられている。冠婚葬祭と言うくらいだから、結婚式が入るのなら、葬式も含まれそうだ。そして、それらについて助言と承認をする内閣の「儀式」にも、同じように含まれるのかもしれない。
ただ、上記は憲法上も記載のある「天皇」の「儀式」についてであった。安倍晋三氏の葬儀を、天皇の国事行為として行うわけではないから、少し話は変わってくるように思う。私個人の考えで言えば、儀式というとどうしてもこのような天皇に関与した言葉に思え、「行事に関する事務」に当てはめる方が理屈に合う気もするが、いずれにしても理屈を立てられる人たちなら、根拠法となる理由を説明できそうな気がする。
4. 政治問題としての国葬 ~是非と当否は別である~
以上のとおり、本件に関係しそうな法原理を考えてみると、適法とは言えそうである。私が思い出すのは、「集団的自衛権」に関する解釈だ。憲法9条が集団的自衛権を否定していないという解釈自体は、実は憲法学説の中では、決して“トンデモ”ではない。1項と2項の関係から、読み解くことは可能である。
一方で、集団的自衛権という国家の在り方にも関わる部分を、国民のコンセンサスを得ずに決めて良かったのかという話と同様、違法でない=正しいわけではない。いろいろ述べてきた、国民によって行政、権力をコントロールする必要性に照らして考えると、国葬という形で誰を特別扱いするかについての、法律による民主的なコントロールは存在しておらず、その時の権力者が自由に決められるという結論が正しいとも思えない。今後の濫用を防ぐためのルール決めは、批判を押し切って行うのならなおさら、禍根を残さないように同時にしておかなければならないと思う。
違法か適法かという是非の議論により、仮に可能であってもやり方の部分で生じる問題がおざなりにされないかは、懸念するところである。
- こちらに掲載されている情報は、2022年08月03日時点の情報です。最新の情報と異なる場合がありますので、あらかじめご了承ください。
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