時速194kmは危険運転ではないのか? ~大分死亡事故の背景にある法と解釈の限界~
現在、大分地検宛ての署名が集められています。署名用紙の冒頭には、「一般道で時速194キロは「過失」ですか?」と書かれています。危険運転致死という重い犯罪類型ではなく、過失運転致死によって起訴されたことに、被害者遺族が抗議するものです。
「一般道を時速194kmで走行したら、事故が起きても当然だろう」、「危険な運転に決まっているじゃないか」と思うのは、一般人の感覚として当然だと思います。そこで、危険運転になるのに、どこが障害になっているのかを、裁判例なども踏まえながら検討してみようと思います。
1. 危険運転は法律によって定義されるもの ~罪刑法定主義との関係~
基本的なことになりますが、『危険運転致死罪』は、危険な運転全般を取り締まる法律にはなっていません。自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律(自動車運転死傷処罰法)で「危険な運転としてリストアップされた行為」についてのみ、重い処罰を科します。犯罪を法律で取り締まり、国民に刑罰を科すには、あらかじめ法律により、国民からの承認を得ていなければいけません。そのため、条文に書いてある行為に、ちゃんと当てはめる必要があります。
この点につき、ドリフト走行や急加速・急ハンドルという走り屋的な態様の運転を行い、あくまで【速度】ではなく【運転の仕方が原因】で事故に至っていた要素が強かった事案で、裁判所はある種の不正義を自覚するかのように「改正前刑法での危険運転行為に匹敵するほど極めて危険なものであることは明らかであるが、そのような運転方法を危険運転行為として規定していないから、罪刑法定主義の見地から、危険運転致死傷罪に問う余地はない」と述べています(大阪高裁平成27年7月2日判決判タ1419号216頁要約)。
自動車運転死傷処罰法2条2号「その進行を制御することが困難な高速度で自動車を走行させる行為」が今回問題になっており、これか、あるいはこれ以外のリストアップされた行為にあたると言えなければ、遺族の望んだ結論にはなりません。
2. 速度よりも進行制御に重きを置いた実務運用
遺族は、「加害者は衝突するまでまっすぐ走れている。たとえばカーブを曲がり切れなかったというのなら危険運転の証拠になるが、直線道路での走行を制御できていたということになるので、危険運転にはあたらない」と検察官に伝えられたそうです。
実際、この条文について裁判所も、「そのような速度での走行を続ければ、道路の形状、路面の状況などの道路の状況、車両の構造、性能等の客観的事実に照らし、あるいは、ハンドルやブレーキの操作のわずかなミスによって、自車を進路から逸脱させて事故を発生させることになるような速度をいう」としており(東京高裁平成22年12月10日判決判タ1375号246頁)、『速度が高速で問題かどうかは場所次第』という考えが一般論として見えます。そして、湾曲した道路だと曲がらなければいけないのに曲がれない速度だったと言いやすいので積極的に適用する傾向が見えます。
静岡地裁沼津支部平成29年7月19日判決は、湾曲した道路の限界旋回速度が時速42kmだった時、時速44kmでドリフト走行した行為を、「進行を制御することが困難な高速度」と認定しています。このように高速度を問題としたかに見える条文において、速度は最低限が求められているだけであり、その結果特定の運転ができなかったところが本質とされているようにも見えます。
3. 直線道路での先例 ~曲がってはいないけど・・・~
直線で高速度の条文が適用された先例もあります(千葉地裁平成25年5月23日判決(平成24年わ第1330号))。
こちらは、旋回限界速度という数字的な基準があったわけではないですが、実験の結果、時速80km以上でゼロG状態に突入し、的確に進行させるには、腰を座席のシートに押し付けるなどして固定する運転姿勢を保ちながら、車両の上下動の衝撃によって不用意な操作をしないようハンドルを弱く握り、車にバランスのずれが生じた場合には、タイヤが路面に接着している瞬間に、わずかなハンドル操作をしてこれを修正することなどが必要と、まるで走り屋漫画の1コマ化のような動作が必要なことを立証し、制御困難という評価を得ました。
残念ながら、大分の事件について道路の形状や車の性能、運転実験の結果は、私にはわからないです。ただ、時速194kmを出しても全く直進するのにブレが出ない道路や高速度に堪える車なのかという視点が、掘り下げるとすれば重要になると思われます。
4. 場所ではなく人の能力を問題にできないのか?
自動車運転死傷処罰法2条3号「その進行を制御する技能を有しないで自動車を走行させる行為」も、危険運転として規定されています。しかし、これはハンドルブレーキ等の運転装置を操作する初歩的な技能を有しないような運転の技量が極めて未熟なことをいうとされているため、本件で問題にはされにくそうです。
ただ、私はこっちの条文については、もう少し解釈の余地があると思います。高速度については道路の形状と想定される具体的な「その進行」を照らし合わせて、不可能に至ってないかを評価していました。こちらも、具体的な「その進行」を制御する技能を有していたかについて検討する余地は、文言上もあるように思います。
特に、本件のように時速194kmは、いくら車のスペックや道路の形状が良くても、技能がないと制御できない普通ではない走行です。もっとも、蛇行していたなどの事実がないと、制御できていたという反論はやっぱり出てくると思うのですが、議論の俎上(そじょう)に載せる意味はあると考えます。
5. 不正義を解釈で埋めることの危険性
前記でもいろいろ記載したとおり、検討は尽くされるべき事件だと思います。ただ一方で、法律は時に不正義なものであるということを受け入れることも、法治社会では必要です。
法律が不正義であることの典型例は、時効です。当事者にとっては、時間の経過で終わるわけがない話について、リソースの効率化といった観点から、タイムリミットを設けています。でも、そのようなルールを容易に変更していたら、法を設けた意義が失われます。
危険運転は、まだ歴史が浅く改正を加えている法律ですので、本件を捕捉できるよう立法的解決を考えるのも、制度という観点からは必要です。
- こちらに掲載されている情報は、2022年10月04日時点の情報です。最新の情報と異なる場合がありますので、あらかじめご了承ください。
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