ダウニーJrやエマ・ストーンは「レイシスト」なのか? アカデミー賞「アジア人差別騒動」 “先入観”に目を曇らされずに考える
2024年3月10日(日本時間では11日)、第96回アカデミー賞の授賞式が開催された。クリストファー・ノーラン監督の『オッペンハイマー』が作品賞以下最多7部門で受賞し、日本からは『君たちはどう生きるか』が長編アニメ映画賞に、『ゴジラ-1.0』が特殊効果賞に輝いたことも話題となった。
その一方で騒動も起きた。『オッペンハイマー』で助演男優賞を受賞したロバート・ダウニーJr.と『哀れなるものたち』で主演女優賞に輝いたエマ・ストーンの壇上でのふるまいに対して、「人種差別的である」という批判が湧き上がったのだ。
華やかな授賞式に降って湧いた人種差別騒動
アカデミー賞の演技部門では、基本的に前年の受賞者がプレゼンターを務めることになっている。今回も、助演男優賞は昨年『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』で受賞したキー・ホイ・クァンが、主演女優賞も『エブリシング~』で主演賞に輝いたミシェル・ヨーがオスカー像を渡す役目を担った。ところがトップスターであるダウニーJr.とストーンが、壇上でプレゼンターのクァンとヨーをないがしろにしたというのである。
『エブリシング~』は中国系移民の家族を主人公にしたSFファンタジーで、昨年のアカデミー賞では作品賞を含む7部門を獲得。夫婦役を演じたミシェル・ヨーとキー・ホイ・クァンもW受賞し、ハリウッドにおけるアジア系の躍進を大いにアピールした。その2人が粗雑に扱われたことは「白人によるアジア人蔑視の顕在化」であると批判する投稿がSNS等で広がり、ダウニーJr.やストーンを差別主義者だと非難するアカウントも現れた。
さらには授賞式での“事件”を、海外で差別的な扱いを受けたり、透明化(まるでそこにいないかのように振る舞われる)されたりした実体験と重ね合わせる海外在住経験者の投稿が相次ぎ、「欧米でのアジア系差別」全般にまつわる話題にまで発展した。一連の騒動を(もしくはその一部を)ネットニュース等で目にした方も少なからずいるだろう。
大前提として、人種差別を許容することはできないし、実際に差別的な瞬間は存在した。ここから反差別の議論が深まることには大賛成だが、いささか論点や認識が錯綜(さくそう)していたように感じるので、今回の騒動を整理してみたい。
アカデミー賞授賞式の晴れ舞台で何が起こったか?
まず、受賞式での経緯を具体的に振り返ってみよう。通常はプレゼンターの数は1〜3名。しかし今年の演技部門では、前年の受賞者に過去の受賞経験者4名が加わり、5人のプレゼンターが壇上で横に広がるように立ち、各部門に5人いる候補者をひとりずつ紹介するという趣向が採用されていた。
クァンが受賞者の名前を読み上げると、ダウニーJr.は真っ先にステージの一番下手に立っていたティム・ロビンスに近づき、その途中でクァンに視線を向けることなく片手でオスカー像を受け取った。ロビンスと握手したダウニーJr.は、クァンの方に向き直って何かをアピールしたようにも見えたが、横からグータッチを求めてきたサム・ロックウェルに応対したため、上手側にいたクァン、クリストフ・ヴァルツ、マハーシャラ・アリの3人をほぼ無視した状態でスピーチに入ってしまったのである。
主演女優賞のエマ・ストーンのケースはさらにややこしい。ミシェル・ヨーに名前を読み上げられたストーンは、ドレスのジッパーが壊れてしまったとゼスチャーを交えてアピールしながら、いささか狼狽えた様子でステージに上がり、ヨーからオスカー像を受け取るはずが2人で像をつかんだまま下手側の隣にいたジェニファー・ローレンスに近づき、ローレンスも近寄ってオスカー像をつかんだことで、ローレンスがオスカー像を渡したようにも見える形になったのだ。
この状況を、「ストーンがヨーをローレンスの方に引きずり、ローレンスもオスカー像を手渡す役割をヨーから奪った」として、両名を非難する論調が生まれた。また、立ち位置を離れて動き出したローレンスを右隣にいたサリー・フィールドが引き戻そうとしたため、SNS上では「フィールドが出しゃばったローレンスを止めようとした」と称賛する声も聞かれた。
上記の経緯はすべて、授賞式のテレビ中継の映像が「そのように見えた」という話である。この記事も、なるべく客観的に描写しているつもりだが、筆者の主観が混じっていることはお断りしておく。批判を浴びる結果となったダウニーJr.、ストーン、ローレンスは、現時点でこの件について公式に発言しておらず、当人たちがどういう認識でいたのかはわからない。
しかし一夜明けて、ミシェル・ヨーがインスタグラムに改めてストーンへの祝いの言葉を投稿。「混乱させてしまったけれど、オスカー像を渡す栄誉をあなたの親友のジェニファーと共有したかったの」と綴ったため、壇上で起きたゴタゴタはヨーの気遣いの結果だったことになり、ストーンへの非難はほぼ沈静化した。
ハリウッドに根深く残るマイノリティ差別
ハリウッド映画はながらく人種差別の問題を積極的に取り上げてきたが、現実のハリウッドには白人優位主義が厳然として存在し、根強く差別の構造が残っていることは常々批判されてきた。
100年近いアカデミー賞の歴史の中でも、非白人系の候補者や受賞者は極端に少なく、演技部門でノミネートされた割合はひと桁台に過ぎない。2015年には演技部門のノミネートがすべて白人だったことに抗議する「#OscarsSoWhite(アカデミー賞は白人ばかり)」運動が巻き起こったが、翌16年も候補者は白人しか選ばれず非難が殺到。アカデミー協会はマイノリティや女性の会員を大量に増やすなど、多様性をアピールする方針に舵(かじ)を切るキッカケにもなった。
2018年にはアジア系キャストによるラブコメディ『クレイジー・リッチ!』が世界的に大ヒットし、マイノリティの中でもアジア系にようやく光が当たり始める。2020年のアカデミー賞では韓国映画の『パラサイト 半地下の家族』が作品賞、監督賞など4部門を受賞。翌21年は『ノマドランド』のクロエ・ジャオが中国系で初めて監督賞に輝き、韓国のベテラン女優ユン・ヨジョンが『ミナリ』で助演女優賞を受賞するなどアジア系がトレンド化していく(また同年は演技賞候補20名のうち9人をマイノリティ系が占めた)。
さらに2022年には日本映画『ドライブ・マイ・カー』に国際長編映画賞が贈られただけでなく、作品賞と監督賞にもノミネート。そして極めつけとなったのが、昨年の『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』の大量受賞だった。ミシェル・ヨーはアジア系として初めて主演女優賞を獲得し、ガラスの天井を打ち破った歴史的な快挙として記憶されることになったのだ。
今年のアカデミー賞授賞式で白人系スターの振る舞いや態度が問題視された背景には、ハリウッドのアジア系が存在感を示したことで、業界内のさらなる変革を期待するだけでなく、現実にあるアジア人差別に立ち向かう機運が盛り上がっていたことも忘れてはならない。
先入観で他人を断罪する落とし穴を描いた『落下の解剖学』
ただ、今回の騒動にマイノリティへのマイクロアグレッション(無意識の差別)や透明化の弊害を見いだすことと、ロバート・ダウニーJr.、エマ・ストーン、ジェニファー・ローレンスをアジア人蔑視の差別主義者と決めつけることには大きな乖離(かいり)がある。その2つを切り分けて考えないと、取り返しのつかない落とし穴にハマってしまうのではないか。
とりわけ皮肉に思えるのが、昨年のカンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞したフランス映画『落下の解剖学』が、今年のアカデミー賞でも脚本賞に輝くなど高い評価を得たこと。同作ではドイツ人の女性作家が転落死した夫の殺害を疑われ、フランスの法廷に立たされる。監督のジュスティーヌ・トリエは法廷ミステリーの体裁を借りながら、いかに人は先入観や印象で他人を断罪してしまうのかという「認知の歪み」を浮かび上がらせていく。
状況証拠しかない中で、検察側は女性作家のスキャンダラスな不貞行為や、著した小説の記述から殺人行為を立証しようと試みる。いや、それでは理論的に立証は成り立たないのだが、「いかにもやりそうである」というイメージの植え付けによって殺意の存在を証明しようとするのだ。やがて裁判はイメージ対イメージの泥仕合となり、無責任な報道は加熱し、当事者しか知り得ない“真実”は置き去りにされていく。
普通のミステリー映画なら「事件の真相はコレでした!」というオチを用意するもの。しかしトリエ監督は、真相は藪(やぶ)の中に置いたままで、誰かを「裁く」行為のあやふやさと危うさを突きつけてくるのである。
改めて、今回の騒動にアジア人軽視や差別の問題を重ねて語ることは可能だし、不適切なふるまいを批判することもできるだろう。しかしテレビ中継で放送された数十秒の映像を証拠として、特定のスターを差別主義者だと糾弾するのはさすがに乱暴が過ぎる。そして騒動は一過性だったとしても、一度ネット上で貼られた「レイシスト」というレッテルは、現実から遊離したイメージとしてくすぶり続けるのだろう。
個人を攻撃する前に、目を曇らされないスキルを
ハリウッドの大物プロデューサーの性的虐待告発から火がついた#MeToo運動は、弱い立場に押し込められていた被害者たちが声を上げ、社会がその声に耳を傾ける重要性を世に知らしめた。法で裁かれ有罪にならない限り「推定無罪」として扱うのが法治社会の原則だが、強い権力勾配がある状況下では、立場の強い加害者によって被害者の告発が容易に封じられてしまうからだ。
#MeToo運動は捜査当局と司法だけに頼る限界を可視化し、これまで責任を問われなかった搾取とハラスメントの構造を明らかにしたといえる。今回の騒動をきっかけにマイノリティ側がマイクロアグレッションに対して声を上げたことも、現状を変えるための切実な抵抗であることは間違いない。
しかしミシェル・ヨーのインスタグラム投稿については、「裏で両者のエージェントが丸く収めようとした」と疑ったり、「またマイノリティがマジョリティである白人の尻拭いをさせられるのか」と失望する声もSNS投稿やネット記事の中に散見された。
ヨーの真意は本人と関係者以外にわかるものではなく、どんな疑念だって可能性はあり得る。ただ「声なきものの声を聞いて」と主張している側の人たちが、ヨーが公に発表した言葉を臆測だけで疑うのは、彼女の声を封殺する本末転倒な行為に堕ちてはいないか。
さらにSNS上では、『関心領域』で国際長編映画賞を受賞したユダヤ系監督のジョナサン・グレイザーがスピーチでイスラエルのガザ攻撃を(イスラエルを攻撃したハマスと同様に)批判した際に「マーゴット・ロビーとエマ・ストーンは拍手をしていなかった」という投稿が拡散され、イスラエル支持だと非難する声が伝播していった。
該当する映像を見ると、確かに拍手が起きている中でストーンがただ座っている姿は映っているが、マーゴット・ロビーは確認できなかった。またハリウッドにはイスラエル支持者も多いことや、スピーチの最中ということもあって会場全体の拍手はまばら。『哀れなるものたち』で共演したストーンと共演したマーク・ラファロもストーンの近くに座っているが、彼もその場面で拍手はしていない。
ラファロはグレイザー監督と同じくイスラエルを批判する立場を表明しており、ガザの即時停戦を求める赤いピンバッジを付けて出席していた。つまりこの映像から「ストーンはイスラエル支持」と断定するのは「切り取り」による当て推量に過ぎず、誹謗中傷レベルの怪情報とすらいえる。
映画は「時代を映す鏡」の側面を持っている。社会の変化に合わせて、映画ファンも喫緊の社会問題に関心を持つようになった。極端な暴言は全体の一部でしかないかも知れないが、大義が「よりよい社会」を目指すものであるのなら、大局的な問題提起とファクトから離れた個人攻撃を一緒くたにするべきではない。その危険を冒さないためにも、われわれは氾濫する情報を前にして、先入観に目を曇らされないスキルを育んでいくしかないと思うのだ。
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