SNS炎上は法律で規制できない? 憲法は「表現の自由の権利」をどのように守るのか
日本では「表現の自由」が問題になり続けている。
「表現の自由」が問題になった近年の事例
表現の自由と聞いて多くの人が連想するのは、政府や自治体、政治家や各省庁とその管轄機関などの公的な権力が、個人・市民が表現を行う自由を抑圧する、という構図だろう。
1月には、群馬県が高崎市の県立公園に設置されていた「朝鮮人追悼碑」を撤去したことが問題になった。
昨年6月には、埼玉県後援力協会が県営プールで催されることが予定されていた水着撮影会の中止を要請したが(のちに要請は一部撤回されたが撮影会は開催されず)、事前に日本共産党の埼玉県議会議員団が中止を求める申し入れをしていたことが批判された。
また、現代では個人が意見発信や創作などの「表現」を行う場はSNSが中心になっているが、そこでも表現の自由が問題となっている。
SNSにおけるデマやヘイト・スピーチは以前から問題視されており、2月にはSNS上の偽・誤情報対策を話し合う総務省の有識者会議が開かれた。政府はこれまでは表現の自由を重視してプラットフォーム業者の自主的な対策に任されていたが、今後はプロバイダー責任制限法を改正して業者に積極的な対応を求めていく方針だ。
日本の憲法で「表現の自由」について記されているのは第21条だ。
第二十一条:
1.集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2.検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
そもそも、なぜ表現の自由は憲法で保障されるほど重要なものとされているのだろうか。
もし、ある人の表現が別の人の権利を侵害する場合、どちらを守ることが優先されるのだろうか。
また、表現の自由は、公的な権力によってだけでなく、プラットフォーム事業者など私企業の方針や、市民団体や個人による批判などによっても侵害されるかもしれない。憲法はこのような場合にも表現の自由を守ることを保障しているのだろうか。
「表現の自由」を専門とする憲法学者の志田陽子教授に、話を聞いた。
憲法と「表現の自由」の関係
憲法とは国民を守るために国家権力に制限を課すものと言われますが、憲法二十一条の「表現の自由の保障」はどのような運用が想定されているのでしょうか?
志田教授:憲法が保障している「自由権」は、近代型と現代型に分けられます。
世界に憲法が登場した18世紀〜19世紀には「国王から市民の自由を勝ち取る」ということが課題となっていたため、国家権力に制限を課すことが重視されていました。「国家権力によって自由を制約されないこと」というのが「近代型」の自由権です。
しかし、経済の発展に伴い格差や貧困の問題が注目されるようになることで、憲法についても「国に国民の自由を制限させない」という消極的な面だけでなく「国が国民を支援する」という積極的な面が主張されるようになりました。なお、経済的な面で国民を支援する国家は「福祉国家」と呼ばれます。
経済的な福祉と同じように、自由権や参政権なども、それを成り立たせるためには制度やインフラの整備など国による積極的な支援が必要であることが理解されるようになりました。たとえば、参政権は、選挙制度がきちんと機能しなければ意味を持ちませんよね。
表現の自由も、インターネットのような技術の発展やインフラによって影響されます。「国民が自由を行使できるように保障するため、国家が制度・インフラを整備すること」が「現代型」の自由権となります。
ただし、インターネットやネット上での各種プラットフォームは、国ではなく私企業が作っているもの。「公道」ではなく「私道」です。そのため、プラットフォーム側としては「国は干渉してこないでほしい」と主張することもあります。
しかし、インターネットは、今日では公共的な情報インフラとしての価値をもつものとして利用されているので、国にもこのインフラを健全に保つという現代型の責任があると言えます。そのため、日本の総務省や海外の人権委員会などの各機関は、プラットフォーム事業のあり方に介入するわけです。
私人間の争いなどが原因で片方の「表現の自由」が制限されるような事態にも、憲法21条は関わってくるのでしょうか。
志田教授:たとえば私人どうしが互いの「表現の自由」を尊重しながら議論や討論をした場合、その結果としてどちらかが不快になったとしても、国家は介入しません。
しかし、言論によって片方が相手の名誉やプライバシーなどの権利を侵害する場合には、刑法による規制や、民法による法的責任の対象となります。
このとき、憲法は「国は法律によってどこまで私人の行為を規制できるか」ということを判断するものとして関わってきます。
たとえば、「行儀の悪い言葉や悪口などもすべて民法によって規制しよう」とか「国会議員に対する批判を許さない法律を作ろう」とかいった動きがあっても、憲法で表現の自由が保障されている以上、そんな法律を作ることは許されません。
つまり、私人間における問題において憲法は直接的には関わりませんが、刑法などによる規制や民法などに基づく裁判所の判決が適切なものかどうかを判断するための「評価基準」として、間接的に関わってくるのです。
法律はプラットフォームに介入できるか
イーロン・マスク氏がTwitter社(現X社)を買収したことをめぐり、「SNSは公共のインフラか、あくまで私企業の商品に過ぎないのか」という議論が盛んに行われました。
志田教授:基本的に、国は国民の自由を制限することはできるだけ控えるべきだとされています。
たとえばインターネット上における表現の問題についても、個々のユーザーの投稿を国が規制するということはなく、プラットフォーム事業者のほうが規制の対象となります。
とはいえ、言論や経済の世界では、プラットフォーム事業者などの私企業も「法人」として、「私人」と同じく自由が保障されるべき存在でもあります。
つまり、私企業とはインフラにかかわる「責任」を持つ存在であると同時に、経済活動の「自由」を持つ存在でもあるのです。
私企業が持つ責任と自由のバランスをどう考えるかという問題は難しく、法学の世界でもまだまだ議論が続いています。
表現の自由は個人が持つ「権利」であるとされている一方で、表現が個人の名誉を毀損するなどして、他の人々の「権利」を侵害することもあります。権利と言えば「絶対に守られるべきもの」という印象もありますが、こういった「権利」どうしが対立する場合、法律ではどのように対処するのでしょうか。
志田教授:法律上の権利のなかでも、人間が生きる上でとくに必要で基本的なものが、憲法に「人権」として定められています。これは、長い歴史のなかで「人間にはこういった権利が必要だ」、「こういった権利侵害は見過ごしてはならない」という見解が徐々に積み重ねられてきたもので、「表現の自由」もその中に位置づけられます。それと同時に、それ自体は憲法上の「人権」とまでは言えなくても、歴史の中で共有されてきた重要な権利があり、「名誉毀損」における「名誉」はその代表と言えます。
個人に対する名誉毀損の問題は昔から論じられてきていたため、どういった行為が名誉毀損になるかということは、比較的はっきりと定められています。
一方で、集団に対するヘイト・スピーチの問題は法律の世界では最近になって注目されるようになってきた事柄であり、そのなかでも日本の法律はとくに対応が遅れているため、この問題に関する考え方や対処はまだはっきり定められていません。
いずれにせよ、ふたつ以上の権利が対立する場合には、権利は「絶対に守られるもの」として扱われるわけではありません。法律や裁判を通じて、権利にも「限度」が定められたり、一方がもう片方に譲るような調整が行われます。
表現の自由は“絶対”ではない?
それでは、「表現の自由の権利」は絶対に守られるべきもの、とはされていないのでしょうか。
志田教授:日本では、戦前や戦中に言論弾圧が起こったことの反省から、憲法学の世界でも「憲法・言論の自由は絶対に守られなければならない」という姿勢が主流でした。
また、日本は同調圧力が強く、言論の萎縮が起こりやすい社会であるからこそ、多くの憲法学者が「表現の自由には強い保護を与えなければならない」と考えてきました。
ヘイト・スピーチについては、日本の法学者たちもその害悪性は認識していました。規制に消極的な論調が長く主流だったのは、「ヘイト・スピーチ」を問題のないものと見ていたわけではなく、「表向きはヘイト・スピーチ規制を目的にした法律が、議員などの公人が自分に対する批判を封じるなどの言論弾圧に悪用されるのではないか」「弱者を追い詰めるヘイト・スピーチを規制するはずだったのに、弱者の発言をあら探ししてさらに追い詰める道具として悪用されるのではないか」という危惧があったからです。
そのため、ヘイト・スピーチなどの悪質な言論も、可能な限り、「言論の自由市場」ないし「思想の自由市場」の中で、社会の自発的な作用によって解消されていくことが望ましい、と考えられてきました。
ヘイト・スピーチ解消法が成立したのが2016年と諸外国に比べてかなり遅くなった背景にも、こういった事情が存在します。この法律が成立して以降、「人格権」保護の形をとって実質的に「差別言論を拒否する権利」が裁判で認められるケースも増えました。
つまり、ごく最近になってから、「表現の自由の権利」は絶対的なものではなくなり、弱者への配慮によって制限され得るものとして相対化されるようになってきました。
ただし、ここにおける相対化はあくまで「一般人どうしで権利が衝突したときには、表現の自由は制限され得る」ということです。国に対して個人が批判をする自由は、最初に確認した原則のとおり、守られるべきです。
なお、企業の経営者などには従業員との立場の差に基づく権力があり、それに伴い「職場環境を健全に保つ責任」が課せられています。
大阪の民間企業で、民族差別的な文書を繰り返し配られて精神的苦痛を受けたとして、従業員である在日韓国人の女性が訴訟を起こした事件でも、従業員側の訴えが認められて、企業には損害賠償が課されました。
法律で権利を扱う際には、当事者間の「力の差」や「責任の差」も考慮されるということです。
「人権」と言うと、時代や社会を問わず、どんな人にも平等な権利が生まれつき備わっている、という印象を抱きます。しかし、法律の世界では、時代を経るにつれて「昔はなかった○○権が現代には存在する」 「昔あった××の権利は、もう認められない」といったことが起こるのでしょうか。
志田教授:法律の世界では、権利とは裁判を通じて「発展」するものと考えられます。
ただし、日本の裁判所は権利を認定することに消極的です。たとえ憲法に明記されている権利であっても、具体的な事例において裁判所がはっきりと認めていないため、憲法の記述が “死文”化しているということもあります。
権利を活かすも殺すも、裁判所に委ねられているのです。一部の権利は裁判所によって発展させられてきた一方で、別の権利は、裁判所が認定に尻込みしているために発展が遅れています。
たとえば、同性婚の権利を認定するのに日本の裁判所は消極的ですね。それに比べると、名誉毀損については「人格権」を侵害するものであると裁判所が積極的に認めていき、権利の発展を促進してきました。
志田陽子
武蔵野美術大学教授。博士(法学)。憲法理論研究会運営委員長(2022-2024)、全国憲法研究会運営委員、日本科学者会議共同代表、日本女性法律家協会・憲法問題研究会座長。芸術・文化政策に関連する憲法問題の理論研究を続けながら、表現の自由と多文化社会の課題に取り組んでいる。著書に『表現者のための憲法入門 第2版』(武蔵野美術大学出版局、2024年)、『「表現の自由」の明日へ 一人ひとりのために、共存社会のために』(大月書店、2018年)など。
- この記事は、公開日時点の情報や法律に基づいて執筆しております。
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