リング禍、パンチドランカー…「ボクシング」のリスクに根強い廃止論も 危険を承知で挑む競技者を止める“倫理”は存在する?
8月12日(日本時間)に閉幕したパリ五輪。ボクシングは男子71キロ級日本代表の岡澤セオン選手は初戦敗退、男子57キロ級の原田周大選手は準々決勝で敗退の結果となった。
また、女子66キロ級で金メダルを獲得したアルジェリアのイマネ・ケリフ選手は、自身の性別に関する誹謗中傷をインターネット上で受けたとして、パリの検察当局に告訴を行った。
ケリフ選手と女子57キロ級で金メダルを獲得した台湾の林郁婷(リン・ユーティン)選手は、昨年の世界選手権でIBA(国際ボクシング協会)に出場資格をはく奪されている。検査の結果、両選手は男性ホルモンの一種である「テストステロン」の値が高く、安全性を考慮すると他の女性選手と試合させることはできないと判断したためだ。
しかし、リングの上で二人の人間が殴り合うボクシングというスポーツには、そもそも危険性が含まれている。そして、その危険性などを理由にして「ボクシングを廃止するべきだ」と一部で主張されることもある。
ボクシングにはリング禍やパンチドランカーの危険がある
「ボクシング廃止論」はイギリスを中心に議論されてきた。
廃止論の主な根拠は、ボクサーは試合中に頭部への強い打撃を繰り返し受けるため、深刻なケガや障害を負い最悪の場合には死亡にまで至る「リング禍」が起こりやすいという問題だ。
加えて、ボクサーは「慢性外傷性脳症」(俗にいう「パンチドランカー」)になりやすい点も、ボクシング廃止が主張される理由のひとつだ。
慢性外傷性脳症は他の格闘技やスポーツの選手にも起こり得るが、攻撃が許されている範囲が頭部と胴体に限定されており、また関節技やローキックなどもないボクシングでは、総合格闘技などに比べても頭部に打撃が集中しやすい。
さらに、ノックアウト勝利を狙うためには頭部への攻撃が有効であること、試合時間(ラウンド数)が他の格闘技に比べて長いことも、頭部へのダメージが蓄積されやすい理由として指摘されている。また、試合のみならずスパーリング(実戦的な練習)もダメージを蓄積する要因になる。
なお、頭部への衝撃という点では、アメリカンフットボールやラグビー、サッカーなども深刻だ。これらの球技では慢性外傷性脳症が多発しており、アメリカのNFL(ナショナル・フットボール・リーグ)は公式ルールに「選手としてプレーを始めてから、脳震とうを3~4回起こした選手は引退が勧告される」と記載している。
「危害原則」と「パターナリズム」の衝突
慢性外傷性脳症はボクシングを始めてすぐに発症するのではなく、ダメージが蓄積されることにより後年になって発症するケースが一般的だ。
ここで問題になるのが「ボクシングを始める人は、その危険性を十分に理解しているのか」という点である。
『マンガで学ぶ スポーツ倫理』(科学同人)などの著書がある倫理学者の伊吹友秀教授によると(東京理科大学)、倫理学でボクシングについて議論される際には「危害原理」と「パターナリズム」の衝突が前面に出てくるという。
危害原理は「個人の自由は、それが他者に危害を及ぼすものでなければ、制限することは認められない」とする考え方。1859年に発表されたイギリスの哲学者J・S・ミルの著書『自由論』に由来する。
また、『自由論』では「本人に対して危害を及ぼす行為であっても、その行為を選択する自由を制限すべきではない」とする「愚行権」も提唱されている。 そして、パターナリズムとは「第三者や政府などが個人の選択に干渉して自由を制限することは、その制限が本人にとっての利益になるなら、認められる」とする考え方。
危害原理によれば、個々人がボクシングを行う自由を制限することは認められない。将来的にパンチドランカーになることも愚行権の範囲内だ。一方で、パターナリズムによれば、個々人がパンチドランカーになるのを防ぐためにボクシングの自由を制限することも認められ得る。
なお、倫理学者で「ボクシングを完全に廃止すべきだ」と主張している人は必ずしも多くはなく、むしろ廃止論を批判してボクシングを擁護する人もいる。
「ボクシング廃止論は、実際にケガや障害を負ったボクサーを診察してきた医師によって主張されることも多いと感じます」(伊吹教授)
飲酒や喫煙と同じく、未成年は制限が必要?
危害原理とパターナリズムの衝突は「飲酒」や「喫煙」などの問題でも登場する。
法律などでは、一般的に「成人には判断能力が備わっているために、健康被害のリスクについても理解可能であるから、本人の自己責任のもとに飲酒や喫煙を行う自由が認められる」との考えが採用されている。
一方で未成年は判断能力が未熟であり、また若いころからの飲酒や喫煙は深刻な健康被害を引き起こすリスクが高いために、パターナリズムに基づき、法律によって禁止されている。
伊吹教授によると、ボクシングの場合にも「若年層のボクシングは制限すべきか」「ボクシングを始めるのが認められる年齢の線引きをどこに置くべきか」などの点が問題になるという。
「なお、ボクシングの禁止や制限をすべきとしても、その禁止や制限を『法律』によって行うべきかどうかも議論の対象になります。
特定の道徳的な考え方を法律によって強制することを『リーガル・モラリズム』と呼びますが、倫理学者や法学者の中にはリーガル・モラリズムに批判的な人もいます」(伊吹教授)
スポーツの本質を定める「ルール」と「目的」
大学ボクシング部での「しごき」に起因する傷害致死事件について争われた大阪地裁平成4年7月20日判決では、ボクシングに限らずスポーツ中の暴行行為などが「正当な業務行為」と判断されるための要件として、以下の3点が挙げられている。
(1)行為の目的がスポーツであること(暴行自体が目的ではないこと)
(2)競技のルールの範囲内であること
(3)被害者の同意があること
スポーツ倫理学の観点からは「ルール」が重要となる。元々は中世以前の「野蛮」な競争や遊びを、ルールを整備して洗練させることで、近代スポーツが生み出された。ボクシングも、当初は「ごろつきの殴り合い」に過ぎなかった行為にさまざまなルールが加えられることで進化してきた競技である。
また、競技が進化していくうちに、当初の「目的」とは全く変わったスポーツもある。ライフル射撃やアーチェリーは、元々は「相手や獲物の殺傷」を目的にして武器を用いて行われていた行為が、目的を「技術の腕を競う」などに変化させることでスポーツとして生まれ変わり、現在ではオリンピックの正式種目にも採用されている。
ボクシングに関しても、「頭部への打撃を禁止する」というルールに変更することや、勝利条件を判定勝ちのみにして「相手をノックアウトする」という目的を無くすことで、より安全なスポーツに改変する方法が考えられる。
だが、伊吹教授は「安全性ばかりにこだわると、ボクシングの『実践』そのものに含まれる価値を見落としてしまいます」と指摘する。
「極論を言えば、最も安全な『ボクシング』とは、両選手が互いの身体に一切触れず、コントローラーで互いにキャラクターを操作して画面内で殴り合う、eスポーツのような競技になります。
しかし、それ程までに変わり果てた競技を、大半の人は『ボクシング』と見なさないでしょう。現在のボクシングに感じているような価値を見出すこともできないはずです。
逆に言えば、ボクシングが『危険を伴う殴り合い』であること自体に、わたしたちは価値を見出しているのかもしれません」(伊吹教授)
「性別」の線引きは恣意的なものである
ケリフ選手の件でも注目された「性別」の問題は、近年ではスポーツ業界全体で重要なトピックになっている。とくにボクシングにおいては、選手間の体格や筋肉量などに差があり過ぎるとリング禍の危険も高まるため、センシティブな問題になっている。
基本的に、男女混合で競技を行うと生理学的な差異が原因で統計的に男性が有利になり、女性競技者が活躍する機会が減ってしまうため、競技の男女別は維持すべきだとの議論がスポーツ倫理学でも主流だ。
一方で、「性別や人種に限らず最も『強い』競技者を決定することがスポーツの目的だ」「男女別にすることで男性より強い女性の存在が見えなくなり、『女は男よりも弱い』『女性スポーツは男性スポーツの劣化版だ』といった差別的な認識が強化される」などの理由から男女混合を支持する議論もあるという。
近年では性別に関する身体的特徴やアイデンティティが従来の「男女」の枠組みに当てはまらない人々への認知が世界的に高まったことにより、競技者の「性別」の線引きも問い直されるようになってきた。
伊吹教授が指摘するのは、性別に限らず、スポーツにおけるルールや「線引き」は常に恣意的であるという点だ。
「たとえば、サッカーにおける『手を使ってはいけない』というルールは自然に存在するものではなく、サッカーというスポーツの目的や競技性に基づいて、人工的に作られたものです。
同様に、ボクシングにおける男女の線引きも、恣意的なものです。今回、IBAと、IOC(国際オリンピック委員会)の男女の線引きのルールが一致せず、大きな問題になりました。線引きの仕方には、ホルモン値によるものや、外性器や染色体などで区別する方法などがあります。
重要なのは、男女をどこで線引きするかについて、現状ではボクシング業界でも社会全体でも合意が成立しておらず、議論の必要があるということです。
なお、社会の潮流に関係なく、関係者だけで『ボクシングにおける男女の線引きは自分たちが決める』とする考え方もあり得ます。しかし、結局のところ、スポーツも社会と無縁ではいられません」(伊吹教授)
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