松本人志氏「訴えの取下げ」は裁判を“すべてなかったことにする”手段 裁判をやめるため「他にとりえた2つの方法」とは?【弁護士解説】

弁護士JP編集部

弁護士JP編集部

松本人志氏「訴えの取下げ」は裁判を“すべてなかったことにする”手段 裁判をやめるため「他にとりえた2つの方法」とは?【弁護士解説】
松本人志氏(ロケットパンチ)

お笑いコンビ「ダウンタウン」の松本人志氏が文芸春秋社を相手取り総額5億円超の損害賠償を求めた名誉棄損訴訟で、松本氏が「訴えの取下げ」を行った。その「意義」について、「全面敗訴に等しい」「実質勝訴」など、多分に憶測や希望的観測も含むさまざまな“意見”が飛び交っている。

実際には「訴えの取下げ」は、民事訴訟法に定められた「訴訟を終了させる手段」の一つであり、松本氏側は、他の手段にはない「メリット」があるからこそ、この手段を選んだはずである。

訴えの取下げは法的にどのような意味をもつのか、他の手段と比べて当事者にどのような「メリット・デメリット」があるのか。大学時代から民事訴訟法を専攻し、実務と理論の双方に造詣が深い荒川香遥(あらかわ こうよう)弁護士(弁護士法人ダーウィン法律事務所代表)に聞いた。

訴えの取下げは「すべてなかったことにする」手段

訴えの取下げ(民事訴訟法261条)は、そもそもどのような制度なのか。

荒川弁護士:「裁判所への『裁判をしてほしい』という要求を撤回する意思表示です。訴訟を提起したことを含めて、最初から『何もなかった』ことになります(同262条1項参照)。

損害賠償請求権についての『時効』はストップしません。また、それまで積み重ねられた訴訟行為も、法廷で行われた主張立証もすべてなかったことになるので、紛争の解決基準が後にまったく残りません。

たとえば、ウェブ上の記事や出版物による名誉毀損に対する訴訟を提起した後に、訴えの取下げをした場合、名誉毀損とされた行為については一切『おとがめなし』です。『公開停止』や『差止め』等は行われません。

他方で、訴訟は『最初からなかったこと』になっているので、後で紛争を蒸し返し、改めて訴えを提起することも、理論上は不可能ではありません。ただし、詳しくは後述しますが実務上はきわめて難しいと考えられます」

以上からすれば、名誉毀損訴訟の場合、「訴えの取下げ」をすると、対象となる被告の表現行為は基本的にそのまま「野放し」ということになる。この点は、原告にとって大きなデメリットといわざるを得ないだろう。

松本氏の訴訟が係属していた東京地裁

「訴えの取下げ」以外にとりえた「2つの手段」

上述した大きな不利益にもかかわらず、原告が「訴えの取下げ」を選ぶには、相応のメリットがあるはずである。どのようなメリットが考えられるか。その前提として、他にとりうる手段との違いが問題となる。

原告が主導して訴訟を終了させる手段には、「訴えの取下げ」以外にも「請求の放棄」(同266条)「裁判上の和解」(同267条)がある。それらはどのようなものか。

荒川香遥弁護士(弁護士法人ダーウィン法律事務所提供)

荒川弁護士:「まず『請求の放棄』は、原告がみずから請求に『理由がない』と認めるものです。調書が作成され、請求棄却判決、つまり全面敗訴の判決が確定したのとまったく同じことになります(同267条参照)。

次に、『裁判上の和解』は、原告と被告がお互いに譲歩し合い、文字通り和解するものです。たとえば、『被告は原告に請求額の10分の1を支払えばよい、その代わりに被告は記事を取り下げ謝罪する』といった内容です。調書が作成され、一部認容判決が確定したのとほぼ同じ意味を持ちます。

なお、『ほぼ』としたのは、和解調書には訴訟の対象となっていた損害賠償請求権の他にも、様々な条項を柔軟に盛り込むことができるからです」

「請求の放棄」「裁判上の和解」をした場合の「効力」は?

「請求の放棄」「裁判上の和解」は、調書に記載されると「確定判決と同一の効力」をもつと規定されている(民事訴訟法267条)。では、この「効力」とはどのようなものか。

荒川弁護士:「確定判決の効力で重要なのは『既判力』(同114条1項、115条1項1号)と『執行力』です。

まず、『既判力』とは、原告が裁判で主張した被告への請求権の有無等について、判決で確定された判断が、当事者と裁判所を拘束するというものです。原告は以後、同じ紛争について訴えを提起しても『請求棄却判決』が下されます。名誉棄損訴訟の場合は、もちろん被告の表現行為は『野放し』ということになります。

次に『執行力』は、被告が裁判で確定された義務を果たさなかった場合に、強制的に履行させるものです。たとえば、被告が損害賠償金を支払わなかった場合に、被告の財産を差押えて換金し、原告にそれを払い渡すことが認められます」

では、『請求の放棄』『裁判上の和解』が調書に記載された場合、『既判力』『執行力』は具体的にどのようにはたらくのか。

荒川弁護士:「『請求の放棄』は、原告の請求が否定されるので『既判力』のみが生じます。

原告の被告に対する『損害賠償請求権』等の権利が完全に否定され、同じ紛争について後で訴訟を提起しても『請求棄却』の判決が行われます。

これに対し『裁判上の和解』には『既判力』と『執行力』の双方が生じます。まず『既判力』により原則として原告と被告の双方が和解条項に拘束されます。また『執行力』により、和解条項を守らなかった者に対する差押え等が認められます」

被告の“応訴”後に「訴えの取下げ」をする「メリット」は乏しい?

以上を前提とすると、「訴えの取下げ」は、少なくとも「裁判上の和解」と比べるとデメリットが著しく大きいと考えられる。なぜなら「裁判上の和解」は原告と被告の双方が互いに譲ることが条件なので「一部勝訴」と同じ効果が得られるからである。

原告が「裁判上の和解」を選択しない理由があるとすれば、勝訴判決を得られる可能性が低いのは言うまでもなく、被告が和解に応じてくれる見通しも立たないからにほかならない。

他方で「請求の放棄」と比べるとどうだろうか。「訴えの取下げ」は明確な敗訴を避けられるうえ、「玉虫色」の状態に持ちこめる。それに加えて、後で改めて訴訟を提起できることも「メリット」であるようにも見える。

しかし、荒川弁護士は「事実上、後で改めて訴訟を提起することは困難」と指摘する。

荒川弁護士:「訴訟が始まり、被告が準備書面の提出等をして『ファイティングポーズ』をとっている場合、原告は勝手に『訴えの取下げ』をすることはできないのです。

なぜなら、被告には『請求棄却判決』(勝訴判決)を得る利益が生じているからです。

原告が訴えを取り下げるには、被告の同意を得なければなりません」

つまり、今回の松本氏のケースでも、間違いなく、被告の文春側にうかがいを立てて、同意を得たうえで『訴えの取下げ』が行われたことを意味する。

そして、荒川弁護士によれば、原告が訴え取り下げについて被告の同意を得るために「裁判外の和解」がなされるケースがほとんどだという。

荒川弁護士:「『裁判外の和解』は原告と被告との間の『私法上の契約』です。『原告は被告に対する訴えを取り下げます、条件はこれこれです』といった内容です。

同じ『和解』でも、前述した『裁判上の和解』とは異なり、裁判所はいっさい関与しません。ただし裁判外とはいえ原告と被告を拘束します。つまり、原告は契約上の義務として『訴えの取下げ』をする法的義務を負います。履行しなければ損害賠償等の責任が生じます。

そこで、原告が被告側に『訴えの取下げ』に同意してもらうための条件として、たいていは『二度と同じ訴訟を提起しません』という『不起訴の合意』がなされるはずです。私が被告の弁護士ならば、間違いなくそうします。

裁判外で『不起訴の合意』が行われた場合、その後で原告が再度同じ訴えを提起しても『訴えの利益』がないとされ、『却下判決』が下されます。つまり、原告は事実上、同じ紛争を後で蒸し返す手段を失うことになります」

結局、原告の立場からすれば、被告の応訴後に「裁判上の和解」ではなく敢えて「訴えの取下げ」を選ぶメリットは、「玉虫色」の状態に持ちこめること以外には乏しいと考えられる。

被告の「デメリット」は乏しい

これに対し、「訴えの取下げ」が行われる場合の被告のメリット・デメリットはどうだろうか。

荒川弁護士:「最大のメリットは、訴訟に応じなければならない煩わしさから解放されることでしょう。

日本の訴訟制度では、原告から訴えを提起された場合、被告は裁判の場に出て反論しなければ、原告の言い分がすべて認められてしまうことになります。したがって、訴えの内容がどのようなものであれ、応訴せざるを得ないのです。

そこから解放されるのは、それ自体が大きなメリットです。

これに対し、デメリットは特に思い当たりません。応訴した後に前述の『裁判外の和解』で『不起訴の合意』を結んでおけば、後でまた同じ紛争を蒸し返されるおそれもありませんし」

以上のように、原告から働きかけて訴訟を終了させる手段は「訴えの取下げ」だけでなく「請求の放棄」「裁判上の和解」があるが、どれが有利なのかは、訴訟の対象となっている紛争や権利義務の内容・性質によっても、訴訟の形勢によっても大きく異なり、一概に断じることはできない。

松本氏と文春の件についても、「訴えの取下げ」をめぐり、訴訟外で当事者間にどのようなやりとりがあったのか明らかにされていない以上、法的観点から理論的・客観的に指摘できること以外の、安易な憶測や希望的観測に基づく情報発信や意見表明は避けるべきだろう。

取材協力弁護士

荒川 香遥 弁護士
荒川 香遥 弁護士

所属: 弁護士法人ダーウィン法律事務所立川オフィス

  • この記事は、公開日時点の情報や法律に基づいて執筆しております。

編集部からのお願い

情報提供をお待ちしております

この記事をシェア