渋谷区「路上飲酒規制」に賛否両論…国・自治体が “文化の有無”を判断するのはありか?

弁護士JP編集部

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渋谷区「路上飲酒規制」に賛否両論…国・自治体が “文化の有無”を判断するのはありか?
ハロウィーン当日にも渋谷駅周辺には問題の文言が掲示されていた(10月31日/弁護士JP編集部)

ハロウィーン期間、渋谷区は混雑やトラブルに対策するため「来ないで」と呼びかけていた。それでも10月31日には去年より多くの人が訪れ混雑する様子が見られたが、大きなトラブルは発生しなかった。

トラブルの予防に功を奏したと思われるのが、期間中の「路上飲酒」を禁止した条例だ。一方、区が旗や看板で「渋谷に、路上でお酒を飲む文化はありません」との文言を掲示したことは、SNS上で議論を招いた。

去年より来街者は増えたが、路上飲酒者は減少

2018年に軽トラックが集団に取り囲まれ横転させられる事件を受け、渋谷区は2019年6月、「渋谷駅周辺地域の安全で安心な環境の確保に関する条例」を可決。ハロウィーン当日や前後の週末、年末年始に渋谷駅周辺の一部で飲酒することを禁止した。

今年6月には条例を改正し、飲酒禁止期間を通年に拡大。また、従来は渋谷駅北側・西側が対象だったところ、宮下公園周辺や円山町など駅東側も追加された。改正条例は10月1日から施行されている。

昨年のハロウィーンでは飲酒規制や「渋谷に来ないでほしい」との呼びかけが功を奏し、ピーク時の来街者は予想の6万人を大きく下回る1.5万人にとどまった。

区の発表によると今年は1.8万人が来街し、昨年から20%の増加となった。一方、路上飲酒をした人はおよそ200人であり、昨年から100人近く減ったという。

31日当夜に本稿記者が渋谷駅周辺を通行した際にも、外国人を含めて仮装している人は多数いたが、飲酒している人は見受けられなかった。報道を見ても、大きなトラブルは発生しなかったようだ。

「文化ってお役所があるとかないとか言えるものじゃなくない?」

10月後半、渋谷駅の周辺では「渋谷は、ハロウィーンをお休みします」「渋谷に、路上でお酒を飲む文化はありません」などの文言を記載した看板や旗が掲示されていた。混雑回避や飲酒規制の周知を目的に、区が掲示したものである。

しかし、行政が市民の行動を規制する文脈で「文化」という単語を持ち出したことは、一部の反感を招いた。

10月30日にはライター・翻訳者の野中モモ氏が「この文言、私はすごく嫌です。文化ってお役所があるとかないとか言えるものじゃなくない?」とXに投稿。リプライや引用RTで賛否両論の意見が寄せられた。

文化には「法規範性」が備わっていない

そもそも、何らかの「文化」の有無と、国や区が法律や条例によって規制を行うことに関係はあるのだろうか。

行政による規制や自由権の問題に詳しい杉山大介弁護士は、「文化」には、法的な規制を正当化するための基準や根拠となる「法規範性」が備わっていない、と指摘する。

一方で、法令や規範の解釈に文化が関係する場合はあるという。

「例として、何らかの物を売買する契約をしていく過程で、当事者同士が話し合いを行っている途中にトラブルが発生したとします。

その際、『契約は成立していたか否か』を判断する必要が生じますが、『どのような書面を交わして合意に至るのか』『書面は契約としての意思表示なのか、それとも契約交渉を始めるための誘引なのか』などは、取り引きに関する法文化によって異なるため、判断にあたって法文化も考察することが必要となります」(杉山弁護士)

規制を正当化するためには「客観性」が必要

一般論として、国や自治体が「文化」を持ち出すことについては、政治的な論争が起きやすい。

たとえば、いわゆる「保守派」が学校教育の指導要領や改正憲法案などに関連して「文化」や「伝統」を持ち出し、それに対して、いわゆる「左派」が批判する、という事態はこれまでにも多々生じてきた。つまり、行政が「文化」を持ち出すことはセンシティブな問題といえる。

杉山弁護士は「そもそも、持ち出されている『文化』が実際に存在するのかどうか、という点から注意が必要です」と指摘する。

一方、上述したように文化は「法規範性」を持たないが、社会において文化が別種の「規範性」を有する場面もあるという。

「ただし、文化が規範的性質を発揮するためには、その規範に人々が従う、一定の実質的な理由を伴っていることが必要になります。

例として、母集団の一般多数が『〇〇という文化は存在する』などと認識しているという事実があれば、その認識に一定の規範性が伴っても、仕方ないかもしれません」(杉山弁護士)

今回の場合、実際に渋谷区民のうち多数が「渋谷には路上飲酒の文化はない」と認識しているとすれば、その認識が「路上飲酒の規制」を正当化する理由や根拠を与える、ということだ。

だが、区長のような権力者が、安易に「区民は『渋谷には路上飲酒の文化はない』と認識している」などと主張して規制を正当化することは許されない。文化に対する「認識」について、何らかの形で客観性を担保することが必要となる。

「たとえば、統計的な調査に基づいて『渋谷区民はこのような認識を抱いている』と主張するのであれば、エビデンスに基づく主張だと評価できます。

ただし、裁判所などの法律の分野でも、『文化』『常識』『経験則』などの言葉はいい加減に扱われており、反省すべき点が多いといえます。

例として、判決文において裁判官は『通常人の思考として〜』などと、経験則を平然と用います。しかし、その『通常人』や『思考』の存在に関する証明責任は放棄しているのです」(杉山弁護士)

不確かな理由に基づく規制は警戒すべき

「規制などに関して権力側が『文化』や『常識』などの抽象的な概念で説明を行おうとした場合には、市民の側は細かく突っ込み、概念の内容を具体化させる必要があります」(杉山弁護士)

もし、「文化」や「常識」などの概念が具体的に分析して説明できるものであれば、規制も一定の正当性を持つ可能性がある。

一方で、権力側が具体的な説明も行わずに「こういった文化がある」「これは伝統だ」などと掲げているなら、市民の側は警戒すべきだという。

「説明もできない不確かな理由によって、規制を押し通そうとしている兆候が見られるためです」(杉山弁護士)

法学を離れて社会学や人類学などの分野に目を向けてみると、伝統や文化は国家や権力によって恣意的に「創造」されたものである、と指摘されることが多々ある。

また、クリスマスやバレンタインと異なりハロウィーンが日本に定着したのは最近だが、「ハロウィーンの発祥は欧米だから日本の文化ではない」とも「日本流のハロウィーン文化が存在する」とも主張することが可能だ。

かように「文化」という単語は曖昧で、論争を呼ぶ。路上飲酒やそれを禁止することの是非とは別に、行政が安易に「文化」を持ち出すことについて、私たちは注意の目を向けるべきかもしれない。

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