「画像生成AI」“著作権”問題の落としどころは? 映画の歴史に見る“対応策”のヒント
ここのところ、『画像生成AI』が急速に注目を集めている。
画像生成AIとは、入力されたテキスト情報から数十秒で精度の高いイラストや絵画を作成できるツールで、絵を描くスキルを持っていない人でも高精細の画像を作成できるサービスだ。
この新たなサービスを巡って、「アーティストの仕事が奪われるのでは」といった意見や、「学習データの集め方や出力された画像に対する法的課題」など、さまざまな視点で議論が活発化している。
既存のイラストの個性を反映したイラストを生成するmimicという画像生成AIサービスでは、「利用者が著作権を保持していないイラストを学習用にアップロートする」などの不正利用が行われる懸念があるとして、サービス発表直後から炎上騒ぎとなった。
芸術の世界は、新しいテクノロジーが出現する度、大きな影響を受けてきた。
著作権法とは、『創作物を保護することによって文化の発展に寄与する』ことがその立法目的だが、新技術を用いた“新しい表現”が「創作物」として保護対象となるのか、その都度議論を呼び、保護されるべきものの境界線も変化してきた歴史がある。
例えば、映画は動く対象物を撮影できるカメラという新技術が誕生して初めて製作可能となった。今では、著作物として当たり前に保護されているが、実は誕生当初、著作権法による保護対象ではなかった。
そんな映画という創作物はいかにして市民権を獲得し、著作権のもと保護されるに至ったのか。その過程は、AIという新技術によって起きている今日の議論を考える上でも参考になるのではないか。専門家の解説をもとに考えてみたい。
旧著作権法下で映画は著作物ではなかった
日本で著作権法が成立したのは、1899年(明治32年)。1886年に著作権にまつわる国際的ルールを定めるベルヌ条約が成立し、日本も同条約に加盟するとともに最初の著作権法が成立した。
知財に詳しい折田忠仁弁護士は、この時、映画はまだ著作物として認められていなかったと言う。
「この時には、写真は著作物として例示されていましたが、映画はそうではありませんでした。それもその筈で、当時は映画という言葉すらなく、“活動写真”と称されていたわけですが、活動写真でさえまだ一般に認知されていなかったのです」
映画は、フランスでリュミエール兄弟が1895年に開催した上映会によって誕生したと考えられている。日本で著作権法が成立したのが、そのわずか4年後なので、映画は著作権法で言及されていなくても当然と言える。一方で、写真には一定の著作権が認められていたが、それも限定的なものにとどまっていた。
折田弁護士によると、それは以下のような理由になる。
「写真は著作物として例示こそされていましたが、人が写真機=カメラを用いて機械的に撮影を行った結果の産物に過ぎず、創作に費やす労力は低いということで、その扱いは他の著作物に比べて低いものでした。
例えば、他の著作物は基本的に著作者の生存中及び死後30年間保護されていましたが、写真の保護期間は発行から10年に過ぎませんでした。ベルヌ条約では、『写真を著作物として保護する義務』を課していましたが、それ以上のことはなかったので、日本は日本独自の扱いをしていたのです」
当時は機械に頼った創作物は、全て人間の手によって作られる芸術から一段低いレベルでしか保護されていなかったことになる。全て手作業が当たり前だった時代なので、一般的な感情としても機械を使った創作は、「何となく別物」という感覚が一般的だったのだろう。
独創性の大小で保護期間に差が生じた?
1910年(明治43年)に旧著作権法が改訂された時も、まだ映画は著作物として保護の対象にはならなかった。そんな状況に変化が起きたのは1925年(大正14年)のことだ。
「徐々に世の中に映画が普及して映画産業が勃興し、原作の文字や絵だけでは感得できない映画ならではの表現手法も追及されていった結果、映画には映画製作者の創意工夫が反映されているとの趣旨で映画を文芸の著作物と判示した判例が出ました」(折田弁護士)
初期の映画は、列車から降りてくる人々を撮影したり、歌舞伎などの舞台を固定カメラで記録しただけのものなど、独創的な表現に乏しかった。それが、クローズアップや編集によるカットバックなど、映画独自の表現が発展してきた結果、既存の芸術とは異なる創作物として認められるようになっていった。
そして昭和6年(1931年)の旧著作権法改訂によって、映画を著作物として保護する規定が置かれた。しかし、ここでもまだ、ある理由で映画の保護期間は区別されることになった。
「1931年の改正著作権法で映画が著作物であることが初めて明示されましたが、『独創性の有無』で保護レベルが区別され、独創性に欠ける映画は、写真と同様発行から10年の保護期間のままでした」(折田弁護士)
文学や美術など、既存の芸術と同じレベルの保護を受けられたのは「独創性のある」映画のみで、独創性に欠ける作品と区別されることとなった。ここでは、機械を用いたかどうかという生み出す労力の問題に加えて、カメラという実景を複製するような機械を用いるがゆえに「独創性」が焦点になっている。
独創性で区別しない現行の著作権法
しかし、「独創性」とは法的観点からどのように判断できるのだろうか。
現行の著作権では、「創作意図」があり「創作的な寄与」が認められれば、「独創性」によって保護期間を区別するような規定はない。そもそも、法律によって独創性の量を判断できるのかというと、それは恣意的なものにならざるを得ず、平等性に反すると考えられる。どのような表現であっても、大なり小なり創作性を有するという考えに基づいて、現在の著作権法は運用されている。
映画を巡る著作権の変遷からどのようなことが言えるのか、折田弁護士は以下のようにまとめてくれた。
「最初はカメラやビデオカメラといった機械を介する点で異質であるが故に、典型的著作物とは認められなかった写真と映画ですが、機械を介したとしても人の創意工夫が反映された表現であるならば、それは著作物であり、他の著作物と取扱いを異にする理由は無いという考え方が定着したということだと思います。
確かに、文豪が著した大作と素人が撮った一枚の写真が同等の保護を受けるのはおかしいのではないかとの考え方は自然とも思え、現にかつては創作性のレベルが議論されたわけですが、結局のところ、創作性のレベルを適切に線引きするのは困難であり、創作性の大小で分け隔てすべきではないという結論に至ったのは、人類の英知の一例ではないかと思います」
画像生成AIと著作権
現在のところ、画像生成AIは既存の画像を学習素材としているため、既存の作風と似たものを生み出しがちだが、独創性の有無によって法的には区別されないことから、これもまた表現物として保護の対象となる可能性があること示唆していると思われる。
ただ、画像生成AIを用いる時に入力する”言葉”に創作性があるのかどうかについては、新たな線引きが求められるかもしれない。単なる単語の羅列でも画像生成AIは何らかの画像を出力するため、何を持って創作意図があったと見なすのか、非常に難しい判断になるだろう。
現在はスマートフォンをタップするだけで、写真も映像も簡単に作成可能な時代だ。どれだけ簡単だったとしても、カメラの所有者が意図して録画ボタンを押して撮影したものは、個人の著作物として保護され得る。画像生成AIにテキストを入力する行為は、スマートフォンで撮影するのに近い手軽さで絵画やイラストを生み出せるものだが、現在はその手軽さゆえになんとなく煙たがられている面もあるかもしれない。
折田弁護士がいうように、文豪が苦労して生み出した渾身の一本と、スマホで撮影した簡単なスナップショットが同じ権利を有するというのは、なんとなく気が引けるなと感じるのと同じ感情だろう。
映画の場合は、当時はそれが法的に保護される条件だったこともあり、映画独自の表現テクニックを発展させることで人気が高まり、発展していった。現行の著作権法の下では「独創性」を求められることはないが、映画のように、画像生成AIに代表されるAIが既存の芸術とは異なる表現体系を生み出せるかどうか、文化の発展を考えるとこの観点も重要だろう。
現状の画像生成AIは主に、簡単に絵を生み出すショートカットツールとして使用される傾向が強く、それらを用いた独自の表現があり得るのか追求されていくのはこれからなのだろうと思う。
いずれにせよ、カメラという新技術がかつて、創作物の境界の再考を迫ったように、AIという新技術も創作物とは何かということを改めて私たちに考えさせる契機になっている。せっかく誕生した新しい技術を、どのようにすれば前向きなものとして活かすことができるのか、映画の著作権の歴史には、そのヒントがあるのではないだろうか。
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