「初犯に間違いない」痴漢事件の“容疑者”に「娑婆との境界線」で対面した弁護士の“勘”
新型コロナの行動制限解除とともに、痴漢の検挙件数が増加傾向にあります。警察庁が今年5月に公表した調査結果によれば、2022年中の痴漢の検挙件数は2233件と、3年ぶりに2000件台となりました(2019年は2789件、2020年は1915件、2021年は1931件)。
痴漢で逮捕された後、容疑者(法律用語では「被疑者」)にはどのようなことが待ち受けているのでしょうか。一方で、痴漢をめぐる冤罪事件が話題になることもありますが、その背景・課題として指摘される取り調べや捜査では、どのようなことが行われているのでしょうか。この記事では、被害者、弁護士、検察官それぞれの視点から「小説」の形式で見ていきます。
第3回目は、弁護士・新橋将男が警察署の接見室で事件の被疑者と初めて対面する場面を紹介します。(#4に続く)
※この記事は実際に弁護士として活躍する筆者による書籍『痴漢を弁護する理由』(日本評論社)より一部抜粋・構成。
「異界」と「娑婆」の境界線
接見室に入ると、白い壁が目立った。そこは横2メートル、奥行きが3メートルほどの密室だ。
部屋は真ん中で壁によって仕切られているが、その壁の上半分は透明なアクリル板になっている。そして、アクリル板を挟んで向かい合うようにパイプ椅子が置いてある。
壁の向こうとこちらとで行き来はできない。アクリル板の向こうには扉があり、その扉を開けるとすぐそこに留置場がある。
アクリル板の向こうが自由を奪われた「異界」だとすれば、アクリル板のこちらは日常世界、「娑婆」だ。「異界」と「娑婆」を隔てるのは、一枚のアクリル板。接見室は身体拘束された被疑者や被告人が持つ「娑婆」との接点、アクリル板はまさに「異界」と「娑婆」の境界線上にある。
僕は、小傷の多いパイプ椅子を引いて腰掛け、「異界」との境界に向き合った。
接見室にしてはきれいな方じゃないか。昔よく行った郊外の警察署の、ひび割れた壁や何かによくわからない液体が掛けられた痕の染みが頭に浮かんだ。新宿の警察署のこぎれいな接見室。もっとも広さは他の所と変わらなかった。そして、接見室特有の密閉された空気も変わらなかった。
僕はネクタイを緩めたい誘惑にかられた。空調は効いているはずなのだが。この閉塞感は空調ではどうしようもない。
アクリル板に向かってパイプ椅子に腰かけたまま、僕はノートパソコンを起動した。留置担当の警察官が被疑者を部屋まで呼びに行っている頃だろうか。まだ被疑者が接見室に入ってくるまで時間がある。反対側の壁を見るくらいしか、やることはなかった。
アクリル板の中央の円形のくぼみに、いくつもの小さな穴があけられている。この透明なアクリル板が実はかなりの分厚さがある。小さな穴には、セロハンテープをはがしたような跡がある。それをただぼんやりと眺めていた。エアコンの音だけが空気を刻んでいた。
ここは、あまりに息苦しすぎる。
気づいたときにはドアが開いていた。目の前の椅子を引くこともなく、若者が立っていた。僕は慌てて、挨拶をするために立ち上がった。アクリル板越しに名刺を見せ、座るように促した。二呼吸ほど置いて、青年は目の前のパイプ椅子に腰かけた。
こちらを見つめる目は大きく開かれ、まぎれもなく不安に満ちている。
──若い──
短すぎない黒い髪とワイシャツ姿は一見してサラリーマン風だった。新入社員ということはないだろうが、入社して3年ほどかもしれない。留置場に備え置かれた使いまわしのスウェットを着ていないことから、彼が逮捕された直後であるとすぐにわかった。
初犯に間違いない
「大林さんですね」
「はい」
「当番弁護士として来ました。弁護士の新橋です。当番弁護士を呼んだのは覚えていますか」
「……はい」
大林さんは僕の言葉をかみしめるようにしてから、頷いた。
──初犯だろうな──
根拠もなく確信した。アクリル板越しに感じる大林さんの当惑は、明らかに彼が生まれて初めて身体拘束されたこと、生まれて初めて自由を奪われてここにいることを示唆していた。そのように僕には思えた。それほど大林さんは落ち着きのない様子だった。それもそうだろう。僕と大林さんを隔てるのはたかがアクリル板一枚だが、そこには天と地ほどの違いがあるのだから。
特徴的な大きな目が僕の顔見ては視線を落とし、視線を上げてまたこちらを見ている。呼吸も浅い。やはり動揺し、困惑している。
──初犯に間違いない──
大林さんには、まず弁護士の役割、当番弁護士の役割をかみ砕いて説明した。
「あなたをさっきまで取り調べていた警察官と、弁護士は全く立場が違います。弁護士はあなたの権利や利益を守る立場にあります。警察が何を言っても、私はあなたの味方ということです。弁護士には守秘義務、つまり秘密を守る義務があります。ですから、私に言ったことが、大林さんの許可なく警察に伝わったりすることは絶対にありません」
今まで何度となく繰り返してきた説明を、この日も繰り返した。大林さんの視線は相変わらず定まらなかった。聞こえなかったはずはないのだが。多少不安になった。
「誰か、真っ先に連絡を取りたい人はいますか」
「会社に連絡しないと……出勤途中に捕まったので。どうしたらいいんでしょう」
「私から直接連絡してもいいし、ご家族から職場に連絡してもらってもいいでしょう。ご家族には私から伝えましょう」
大林さんの顔にほんの少しだけ安堵の表情が浮かんだ。
「ところで、事件の中身について、私はまだほとんど何も知りません。あなたが強制わいせつという罪で逮捕されたことしかわかりません。逮捕されるまで何があったのか、順番に教えてもらえますか」
「僕はやってません」
「……電車の中で女性に触った、痴漢をしたと言われました」
──痴漢か──
当初の想定からは外れたが、よくある事件だ。出勤途中の痴漢事件。強制わいせつというからには、相当悪質な態様だろう。
いわゆる痴漢事件は、大きく分けて2種類ある。条例違反と、強制わいせつだ。条例違反というのは、「公衆に著しく迷惑をかける暴力的不良行為等の防止に関する条例」という、長々しい名前の東京都などの条例に違反することだ。他方、強制わいせつという罪は「刑法」という法律に定められている。平たく言うと、比較的「軽い」痴漢が条例違反とされ、「重い」痴漢は刑法に触れるとされるわけだ。服の上から体を触った場合だと、多くは条例違反が成立するだけだが、例えば下着の中にまで手を入れたような場合は、刑法上の強制わいせつ罪にあたるとされる。今回もそちらのパターンだろう。
「どんなことをした、と警察は言ってるのですか」
「女性の、その、パンツの中に手を入れたと……」
「それで……身に覚えはあるんですか」
「僕はやってません。警察にも、やってないと言ってます」
「あなたはやっていない?」
「はい」
「やっていないんですね……」
小刻みに振動するエアコンが、接見室の空気をいつまでも変わらずに刻んでいた。パイプ椅子にもたれかかった。軋む音が部屋中に響きわたる。
──否認事件か……。大変になるぞ──
6時からの打ち合わせと、事務所を出る際に見たボスの顔を、ふと思い出した。
大林さんの声は、張りのないものだった。
大林さんの話をノートパソコンに打ち込みながら、僕は何度も聞き返さなければならなかった。僕の前にあるアクリル板は厚すぎるのだ。彼の声を聞くにも、彼をここから出すのにも……。
(第4回目に続く)
■ 書籍情報
『痴漢を弁護する理由』
著者:大森 顕・山本 衛=編集
出版社:日本評論社
「痴漢」という犯罪に関わる者の苦悩と葛藤を通して、痴漢事件の内実、日本の刑事司法の問題を描き出す小説。
- この記事は、書籍発刊時点の情報や法律に基づいて執筆しております。