「僕はやってません」痴漢容疑を否認するも…男が「線路」に飛び降りて“遁走”を図ったワケ
新型コロナの行動制限解除とともに、痴漢の検挙件数が増加傾向にあります。警察庁が今年5月に公表した調査結果によれば、2022年中の痴漢の検挙件数は2233件と、3年ぶりに2000件台となりました(2019年は2789件、2020年は1915件、2021年は1931件)。
痴漢で逮捕された後、容疑者(法律用語では「被疑者」)にはどのようなことが待ち受けているのでしょうか。一方で、痴漢をめぐる冤罪事件が話題になることもありますが、その背景・課題として指摘される取り調べや捜査では、どのようなことが行われているのでしょうか。この記事では、被害者、弁護士、検察官それぞれの視点から「小説」の形式で見ていきます。
第4回目では、弁護士・新橋将男が「僕はやっていない」と容疑を否認する被疑者・大林から、事件発生時の出来事を聞き出します。(#5に続く)
※この記事は実際に弁護士として活躍する筆者による書籍『痴漢を弁護する理由』(日本評論社)より一部抜粋・構成。
「突然右手首を掴まれた」
先ほどよりは落ち着いてきた大林さんがぽつりぽつりと語った話はこのようなものだ。
大林さんは、大手広告会社に勤めるサラリーマンで独身。国立大学を卒業し、入社して2年目になる。赤羽で一人暮らしをし、毎日電車で、会社のある新宿まで通勤している。実家は三鷹で、母親が一人で住んでいる。父親は、小さいころに母親と離婚した。以後、ほとんど会ったことはない。今朝もいつもどおり、赤羽発の電車にのった。JR湘南新宿ラインだ。いつもと違ったのは、人身事故のせいで電車が遅れていたということだ。もっとも、人身事故での遅延自体、決して珍しいことでもないのだが。当然、電車は猛烈に混んでいた。
「スマホもいじれないくらいでした」
大林さんの言葉を借りれば、そんな混雑具合だったようだ。
さらに時間をかけてようやく聞けた話をまとめると、だんだんと事件の状況がわかってきた。乗客が詰め込まれた電車の中で、大林さんはやることもなく、ぼんやりと立っていた。左手には手提げかばんを下げていた。右手には何も持っていなかったが、手の届く範囲にはつり革はなく、仕方なく右手はそのまま下げていた。前にも、後ろにも、右にも、左にも人がいた。乗客同士の体はお互い触れ合っていた。他人の体温や湿り気が布を通じて伝わってくる。不快さから逃れるように、大林さんは目をつぶった。大林さんが考えていたのは、電車がいつ新宿に到着して、いつ自分が、周りの不幸な乗客たちと一緒に、この窮屈な空間から解放されるかということだけだった。
異変があったのは、電車が池袋駅を出て、新宿に着くまでの間だった。突然大林さんは、右手首を掴まれた。驚いて右手首を見ると、掴んでいるのは前にいた女性だった。こちらを振り返って右手首をつかんでいた。学校の制服を着ていた。随分背が低い。その目の前の女子高生がいつからそこにいたのか、大林さんにはまったくわからなかった。もちろん、初めて会う女子高生だった。その女子高生は叫んだ。
「痴漢です!」
耳を疑うような言葉だった。大林さんは驚いて「えっ」と言ったまま固まってしまった。
線路に“遁走”したワケ
「手首を掴まれたときの右手はどういう状態だったのですか?」
「よくわかりません……。ただ、ずっと下におろしていたと思います」
「右手首を掴まれる前に、右手に何かが当たった感触はありましたか?」
「それがわからないんです。あれだけ混んでいたので、下におろしていた右手がもしかしたらその女子高生のお尻に当たっていたのかもしれません。でも当たっていたというハッキリした記憶もないんです。だけど、わざと触ったということは絶対にありません」
電車が新宿駅に着くまで、大林さんは手首を掴まれたままだった。周りからの視線が大林さんを突き刺していた。
このままでは捕まる。
駅員室に連れていかれてそのまま逮捕される。
駅員室に連れていかれたら人生が終わる。
人生が終わる。
そんな言葉ばかりが頭を駆け巡った。
新宿駅について電車のドアが開き、大林さんは女子高生に右手首を掴まれたままホームに降りた。そして大林さんは、女子高生の手を振り払い、走り出した。線路に飛び降りて、何メートル走ったのだろうか。急に自分の前方に現れた駅員に抱きかかえられるように捕まえられた。大林さんはその場に座り込んでしまったが、立たされてホームに引き上げられた。ホームに連れ戻されるまで、1分もかからなかった。そして彼は、駅員室から新宿警察署に連行されて来たのだった。
あまりに無駄な努力
「線路に降りて逃げたのですか?」
思わず僕は聞き返した。死に物狂いで線路を走っていく大林さんの姿を思いうかべた。
遁走。
あまりに無駄な努力だ。
「ええ。前にインターネットで、『痴漢に間違えられた場合、駅員さんについていったら終わり。逃げるのが一番安全』みたいなことが書いてあったので。今振り返るとまずかったと思います。でもこれしかないと思ったんです……」
大林さんはうなだれた。
インターネットの、この手の無責任な情報には本当にうんざりさせられる。僕はまたため息をついた。
今日何度目のため息だろうか。
確かに駅員室に連れていかれたら、その次に来るのは警察官だ。そして、気が付いたらすでに裁判や判決に連なる刑事手続は動き始めている。こうしたケースは、私人による現行犯逮捕、つまり警察官ではない一般人に逮捕されたということになる。普通の逮捕は、裁判官が発付した逮捕令状を警察官がもってきて「あなたを逮捕する」と言い身柄を拘束される。これが大原則だ。逮捕の前に裁判官が逮捕していいかどうかを審査しているから、誤認逮捕でないことが担保されているという前提に立つ。
しかし、現行犯という目の前で起こった犯罪については、犯人が罪を犯したことが明白なので、裁判官の令状審査がなくても犯人を逮捕できる。現行犯では誤認逮捕はなかろうと法律は考えているのだ。
刑事訴訟法第213条
現行犯人は、何人でも、逮捕状なくしてこれを逮捕することができる。
もちろん例外はあるが、現行犯で逮捕されてしまうと、後は警察署に行って取調べを受け、留置場に入るパターンが圧倒的に多い。けれども、それが嫌だからといって、線路を走って逃げるのは明らかに悪手だ。危険だし、逃走を図ったということは不利に働くこともある。逃亡を図る危険性が高いということで勾留が付きやすくなるし、裁判の場でも「やましいことがないのであれば、なぜ走って逃げたのか」という質問を浴びる可能性もあるだろう。さらに、鉄道会社から損害賠償請求もされかねない。だが、彼がそこまで冷静に判断できるような状況になかったことは、僕もよくわかっていた。
明日も家に帰れない?
「……僕はいつまでここにいるんでしょうか」
大林さんがぽつりと言った。当然の疑問だ。僕は勾留の手続に関して、かみ砕いて説明した。
逮捕によって、自由は奪われる。そして、逮捕は当初の身柄拘束の時から72時間というごく一時的な期間に限って認められているもので、その後にはそれ以上の長期間の身柄拘束手続が存在する。それが「勾留」だ。留置施設から自由に出られない状態が、さらに何日も続く。
あなたは逮捕されていることになっているから、今日は家に帰ることはできない。
明日検察庁にいく。検察官はあなたを取り調べ、勾留するべきと判断したら、裁判所に勾留請求をする。これはつまり、あなたは明日も家に帰れないという事を意味する。
明後日、裁判所は勾留請求に対する判断をする。裁判所が勾留を決定すれば、あなたは明日から数えて10日間、勾留が延長されれば20日間家に帰れないということになる。
そのようなことを説明した。
「その……勾留というのがつくことは避けられないんですか?」
「そんなことはありません。勝算は無いわけではありません」
僕は大林さんを絶望させないように、かと言って希望を与え過ぎないように表現に気を付けて、重々しく大林さんに言った。
認めなければ、出ることはできない?
確かに、検察官が勾留請求をする可能性は相当高い。この事件は否認事件だ。大林さんは容疑を認めていない。この事情を検察官は重視するだろう。勾留の判断で問題になるのは、あくまで証拠隠滅や逃亡の可能性がどれだけあるかだ。事実を認めているか、否認しているかは、本来はその判断に関係しうる一つの事情にしか過ぎない。しかし、検察官にとっては、容疑を素直に認めていないということは、それだけで長期に拘束する理由になるようだ。
認めなければ、出さない。
それが当たり前だと彼らは信じているのではないか。今までの経験から、僕にはそのようにしか思えなかった。
過去に手がけた刑事事件でも何度も理不尽な思いをした。100%とは言わないまでも、この事件で明日検察官が勾留請求をする可能性は極めて高いだろう。そのように大林さんには伝えた。
勾留請求の翌日の裁判所の判断が勝負どころだ。裁判所は最近、痴漢事件に関しては、否認事件でも勾留しないことが増えてきた。証拠隠滅、要するに被害者とされる女性に会ったり、連絡をとって、「働きかけ」をする──偽証をするよう脅したり、頼み込んだりする──可能性が低いというのが、一番の理由だろう。
当然のことだ。痴漢事件で、被疑者と被害者は、偶然同じ電車に乗り合わせただけに過ぎないことがほとんどだ。つまり赤の他人だ。被害者の連絡先や名前や住所を知っていることなど、常識的に考えてほとんどあり得ない。どうやって「働きかけ」をするというのだろうか。念には念を入れて、偶然に再会してしまわないよう、通勤に使う路線を変えれば、被疑者が被害者に接触する可能性は、ほぼゼロに近づく。逃亡の可能性も低い。普通の社会人、今まで一度も捕まったことがない勤め人が、痴漢の疑いをかけられたからといって、家族や仕事を全て投げ打って逃亡するだろうか。警察や検察の呼び出しに応じず、行方をくらましてしまうだろうか。検察官や裁判官は、自分がそのような立場だったら家族や仕事も捨てて逃亡するのだろうか。
あり得ない。裁判所が最近やっと見せ始めている傾向は、むしろ、当然の市民感覚に沿ったものだといえる。
ただし、根本は変わっていない。そもそも裁判所は、事実を認めている事件よりも、否認している事件の方に対する方が、圧倒的に勾留をつけやすい。事実を否認している──争う姿勢を示しているから、「証拠隠滅の動機がある」「逃亡の動機がある」と裁判官は言うのだ。
こんな馬鹿な話はない。犯罪をしていない、自分は無実だ、と訴えている人ほど、一日も早く社会に戻す必要があるはずだ。自分にかかった疑いを晴らすために、何よりも自由を必要としているはずだ。
事実を争う被疑者に対しては、裁判をやる前から勾留という「罰」を与える。自由を奪い、人と会う機会も奪い、心と体を締め上げる。「もし事実を認めるのなら、早く出してあげてもいいですよ」という餌をちらつかせながら。
明らかに歪んでいる。物事の道理が逆転している。しかし、こうした運用はそう簡単に変わるとも思えないのだ。
「明日に検察官に意見書を出しますが、おそらく明日はダメでしょう。明後日には出られる可能性があります。できる限りやってみましょう」
そう言うと、大林さんの顔に少しの光が差したように見えた。
僕は大林さんに、もし釈放されたら、しばらくは実家に戻って、実家のある三鷹から通勤するよう言った。湘南新宿ラインを使わなければ、被害者とされる女性にも遭遇する可能性は極めて低くなる。
「それで出られるのであれば、絶対そうします」
大林さんは力強くうなずいた。
(第5回目に続く)
■ 書籍情報
『痴漢を弁護する理由』
著者:大森 顕・山本 衛=編集
出版社:日本評論社
「痴漢」という犯罪に関わる者の苦悩と葛藤を通して、痴漢事件の内実、日本の刑事司法の問題を描き出す小説。
- この記事は、書籍発刊時点の情報や法律に基づいて執筆しております。